このガイドが扱う範囲
タイ国内での債権回収の手続そのもの、つまり督促、訴訟の提起、判決後の強制執行といった流れは、すでに別のガイドで解説しています。タイにおける債権回収と強制執行をご覧ください。
ここで扱うのは、そこには書いていない部分です。債権者が日本や他国の本社にいて、タイに常駐していない場合に、誰が何に署名し、何を送り、最後に何を受け取るのか。
この違いは実務上大きく、そして見落とされます。手続の中身を理解している担当者でも、委任状の認証で一か月を失うことがあります。
一、本社が署名するもの
委任状は形式が整っていて初めて意味を持ちます。 タイの手続では、受任者が誰であり、どこまでの権限を与えられているかが書面から明確に読み取れる必要があります。海外で作成した書面については、作成地での公証と、そこから先の認証の手続を経たうえで、タイ語の訳文を添えるのが通常の流れです。
ここでよくある三つの躓きがあります。
署名者が違う。 誰が会社を代表して署名できるかは、役職名ではなく、その会社の登記や定款によって決まります。長年商取引の契約に署名してきた現地責任者が、当然にこの書面に署名できるとは限りません。
権限が狭すぎる。 訴訟の追行だけを委任し、和解の権限を含めていない委任状は珍しくありません。しかし実務では早い段階で和解の機会が訪れます。その場で権限がないと、機会そのものを逃します。
認証の順序を間違える。 作成、公証、認証、翻訳という流れのどこかを飛ばすと、書面全体を作り直すことになります。往復に要する時間は、手続の進行そのものより長くなることがあります。
本社側で先に決めておくべきことは二つだけです。誰が署名するのか。そして、和解の権限をどこまで渡すのか。この二つが決まっていれば、あとは書式の問題です。
二、本社が集める証拠一式
タイ側の弁護士が現地で作り出せる資料はほとんどありません。証拠は本社の社内システムの中にあります。
集めていただくのは、次のような資料です。
- 取引の始まりを示すもの — 発注書、見積の承認、注文の確認
- 履行を示すもの — 出荷や納品の記録、検収の記録、役務であれば作業完了の確認
- 請求と残高を示すもの — 請求書、入金の記録、そして未収残高の計算根拠
- 相手方本人の認識を示すもの — ここが最も価値の高い部分です。支払いを約束した返信、遅延を詫びた連絡、分割を申し出たやり取り。電子メールでもメッセージアプリの履歴でも構いません
- 担当者間のやり取り — 誰が誰と、いつ話していたか
実務上の注意を二つ申し上げます。
第一に、編集しないでください。 見やすく整理した要約は補助資料としては有用ですが、原本の代わりにはなりません。加工された記録は、価値を高めるどころか、争いの対象を一つ増やします。
第二に、翻訳の対象を絞ってください。 すべてを訳す必要はありません。訳すべきものと、原文のまま提出して差し支えないものを先に切り分けることで、費用と時間の両方が大きく変わります。この切り分けは受任した側の仕事です。
三、民事か刑事か — 入口を誤ったときの代償
未払いが長期化し、連絡も途絶えると、「これは詐欺ではないのか」という判断に傾きがちです。
ここは慎重に扱う必要があります。支払わないという事実だけでは、刑事の領域には入りません。 資金繰りの悪化も、事業の失敗も、それ自体は民事の問題です。刑事の入口が開くのは、取引の時点で相手方に欺く意図があったと示せる場合に限られます。
入口を誤った場合の代償は、時間です。刑事の申立てが受理されない間も期間は進み、その間に民事側で確保できたはずの資産が処分されていることがあります。逆に、明らかに欺罔の要素がある事案で民事のみを選ぶと、相手方への圧力という点で選択肢を一つ失います。
この判断は、感情ではなく資料で行うものです。 相手方が取引開始時点で履行の意思や能力を欠いていたことを示す資料が手元にあるかどうか。それが分岐点であり、証拠一式を先に揃えていただく理由でもあります。
四、タイへ移った債務者を追う — できることとできないこと
債務者が国境を越えて所在を変えた事案では、追跡そのものが目的化しやすいのですが、実務では順序が逆です。
先に確認すべきは「その人がどこにいるか」ではなく、「タイ国内に手が届く資産がありそうか」です。 所在が判明しても、差押えの対象が何もなければ、判決は紙のまま残ります。
調査で辿れる範囲と辿れない範囲は、おおむね次のように分かれます。
辿れる方向 — 法人であれば登記された情報、役員や株主の構成、不動産の登録名義。これらは調査の出発点として機能します。事業を営んでいる形跡があれば、そこから先に手掛かりが伸びることもあります。
辿れない方向 — 個人の銀行口座の残高や入出金の履歴を、こちらから照会して取得することはできません。所在についても、住居の記録に反映されていない実際の居所を突き止める作業には、当然に限界があります。
したがって初期の評価は、次の三点に集約されます。債務が資料で示せるか。債務者を特定できるか。タイ国内に対象となり得る資産がありそうか。この三つが揃わない案件について、揃っているかのようにご説明することはいたしません。
なお、判決を待つ間に資産が失われることを防ぐ手当てについては、事案の性質と資料の強さによって採り得る手段が異なります。一般論として申し上げられるのは、この手当ては早い段階でしか意味を持たない、という点です。手続の中身は前掲の債権回収と強制執行のガイドをご参照ください。
五、回収した資金を本社へ送る
見落とされやすい最後の段階です。
タイの銀行は、国外への送金にあたり、その原因となった取引を示す資料の提出を求めるのが通常です。判決や和解にもとづく回収金であれば、その内容、当事者の関係、資金の性質が書面から読み取れる状態になっている必要があります。
問題が起きるのは、回収が完了してから資料を探し始めた場合です。資金は口座に着いているのに国外へ出せない、という状態が生じます。
避け方は単純です。着手の段階で、最終的に誰の口座へ、どの通貨で、どの資料を根拠に送金するのかを先に確認しておくこと。回収の設計は入金で終わりではなく、着金が本社に届いて終わりです。
まとめ
| 段階 | 本社が用意するもの | よくある躓き |
|---|---|---|
| 受任 | 委任状(署名者・権限・認証・訳文) | 和解権限が入っていない |
| 証拠 | 発注から入金までの一連の記録と本人の返信 | 加工した要約を原本の代わりに送る |
| 方針 | 民事か刑事かの判断材料 | 支払わない事実だけで刑事を選ぶ |
| 調査 | 相手方に関する既知の情報 | 所在の特定を目的化する |
| 送金 | 送金先と根拠資料の事前確認 | 回収後に要件を調べ始める |
手続の速さを決めるのは現地の事情ではなく、本社側の書類が最初から揃っているかどうかです。
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本ガイドはスワンナワラ法律事務所が作成しました。1986年設立、コンケン本店・バンコク支店。一般的な情報の提供であり、個別の事案に対する法的助言ではありません。手続の要件や期間は事案により異なりますので、実際の資料にもとづきご確認ください。