経営会議で最も答えにくい質問
本社から 「タイ拠点は現地の労働法を遵守できているか」 と問われたとき、最も多い答えは 「たぶん大丈夫です。これまで問題は起きていません」 です。
これは答えになっておらず、たいていは正確でもありません。
タイにおける労働関連の責任は、劇的な一件から生じることはまれです。残業代の払い方、就業形態の分類、他社から流用した契約書のひな型——そうした日々の運用が何年も積み重なり、最初の一人が申し立てた日にまとめて表面化します。
そして労働紛争では、最初の申立人が最後になることはまずありません。 その人を勝たせた事情は、同じ条件で働く全員にそのまま当てはまるからです。
本稿は、その質問に答える立場にある人事責任者・カントリーマネージャー・地域人事のために書いています。解雇された従業員向けではありません。従業員側の立場であれば解雇補償金ガイドをご覧ください。
本稿は一般的な情報であり、個別事案への法的助言ではありません。人数基準、届出期限、各種料率は貴社の実態に即して弁護士にご確認ください。
1. 労働事件は何で決まるのか
使用者は「どちらが正しいか」で決まると考えがちですが、実務上は 二年後になお証明できるもの で決まります。
繰り返し問われるのは常に同じ点です。
- この件について書面のルールがあったか
- 従業員に実際に周知されていたか、それをどう示すか
- 同種の事案を同じように扱ってきたか
- 当時作成された記録が残っているか
最後の点が最も重要です。紛争発生後に作成された文書は当時の記録より格段に評価が低く、場合によっては一件全体の信用を損ないます。
以降のすべてを貫く原則:証明できないものは、行っていないものとして扱われる。
2. 雇用契約と就業規則
多いのは書類がないことではなく、書類が現在の運用を反映していないこと です。
確認すべき点:
- 実際に効力を持つのはどの版か — 設立時に作った就業規則が残る一方、運用中の規程は人事のメールの中にある、という状態は珍しくありません
- 周知の証拠があるか — 掲示、署名による受領確認、または履歴を追える社内システム
- 契約と就業規則が矛盾していないか — 矛盾がある場合、作成した側に有利な結論にはなりにくいものです
- 使用言語 — タイ語を読めない従業員には理解できる版が必要で、版が食い違う場合にどちらが優先するかを明記すべきです
- 就業規則の作成義務が生じる基準 — 従業員数に連動するため、急成長中の企業が気づかないまま基準を超えている例が頻繁にあります
3. 賃金・時間外・休日
誤りが従業員数と年数で掛け算になるため、責任が最も複利的に膨らむ領域です。
- 「賃金」に何が含まれるか — 会社が手当や福利厚生と呼んでいても、定期的な支払いは他の権利を計算する基礎に含まれることがあります。名称は決め手になりません
- 固定残業手当 — 実際の労働時間記録の裏付けなしに毎月定額を支払う方式は、最も争われやすい形態です
- 管理職・営業職 — 取扱いが異なる区分は存在しますが、「マネージャー」という肩書きだけで例外に入るわけではなく、実際の権限が判断されます
- 勤怠記録 — 記録がない、または信頼できない場合に不利になるのは、記録保存義務を負う側です
- 未消化の休暇 — 繰越しと買取りの方針は、退職時に交渉するのではなく、あらかじめ規程で定めておくべきです
4. 休暇・福利厚生と社内申告ルート
事務作業と軽視されがちですが、紛争では想像以上の重みを持ちます。
社内申告ルートは、案件が社外に出る前の最後の関門です。 従業員はいきなり弁護士に行くわけではなく、まず上司に不満を伝え、次に人事に持ち込みます。この二段階が記録を生まなければ、案件は労働監督官や裁判所へ直行し、会社は訴えられて初めて問題の存在を知ることになります。
必要なのは、対象となる上司を経由せずに使える窓口、非公式に解決したものも含めた全件の記録、そして何より一貫性です。同じ事実で一方には寛大に、他方には厳格に対応した記録は、相手方にとって格好の証拠になります。
5. 誰が本当に自社の従業員か
誤ると集団全体に一斉に及ぶため、最も損害が大きい領域です。
| 運用している形態 | 答えられなければならない問い |
|---|---|
| 請負業者経由の労働力 | 実際に誰が指示しているか。中核事業の一部か |
| 毎日出社する「コンサルタント」 | 勤務時間、上長、固定席はあるか |
| 日雇い従業員 | どれだけ継続しているか。勤続年数は通算されているか |
| 有期契約 | 何回更新したか。業務は本当に一時的か |
| グループ会社からの出向者 | 法律上の雇用主は誰か。勤続は継続するか |
判断基準は 契約の名称ではなく関係の実態 です。自社の指揮下で毎日出社する人に業務委託契約を用いている企業は、遡って完全な使用者と扱われ、それに伴う負担をすべて負うリスクを抱えています。
6. 外国人従業員のファイル
二層のリスクが重なりますが、企業は片方しか点検していないことがほとんどです。
第一層——労働法上の権利。 タイの保護は原則として国籍を問わず及ぶため、「本人と別条件で合意した」という前提は高くつきます。
第二層——書類と実態の一致。 就労関係書類に記載された役職・就業場所・雇用主が、実際に起きていることと対応している必要があります。
最も多い破綻は 途中の変更を誰も更新しなかったこと です。別部門への異動、昇進、他県への配属——解雇が争われる場面で初めて発覚し、一つの問題が二つになります。この点はビザ・労働許可ガイドと直接つながります。
7. 人事データとPDPA
従業員データは多くの組織が保有する中で最も機微な個人データですが、プライバシー対応は顧客データを扱って人事を飛ばしがちです。
人事固有の再確認点は、応募者・従業員データを扱う法的根拠、退職後の保存期間、社内での人事ファイルへのアクセス、そして海外親会社への移転です。詳細はPDPAチェックリストにあるため、ここでは繰り返しません。
8. 使用者側の証拠ファイル
一つだけ実行するなら、この項目にしてください。初日から存在しているべきで、必要になった日にたいてい存在しないものです。
- 全員分の署名済み雇用契約書と、そこで参照される付属文書
- 就業規則および全改定の受領確認の証拠
- 勤怠記録と時間外労働の承認記録
- 実際の周期で行った人事評価——解雇直前に遡って作成したものではなく
- 送達の証拠を伴う書面警告
- 苦情・懲戒事案の調査記録
- 項目が分離された支払記録
4と5で負けます。 三年間その業績問題を放置して何も記録せず、業績を理由に解雇した企業は、なぜ今月になって初めて問題になったのかを説明しきれません。
9. 点検の進め方と、実施が見合う時期
有用な点検とは、契約書を読んで適合と宣言することではありません。書かれていること・行われていること・証明できること を突き合わせる作業です。
- 収集 — 契約書、就業規則、社内規程、給与明細の見本、勤怠記録、人事ファイルの抽出
- ヒアリング — 人事および現場管理者。運用が書面と一致しているかを確認
- 優先順位付け — 直ちに是正、次の周期で是正、承知のうえで受容
- 納品 — 各ギャップとその帰結・優先度を示す報告書と、修正済みの書式一式
費用に見合う時期: 組織再編・機能移管・合併の前、従業員数が法定基準を超えた後、集団的な解雇の前、親会社からリスク報告を求められたとき、投資家のデューデリジェンス時。そして 最初の一件を失った直後 です。同じ欠陥がほかの多数の従業員にも当てはまるからです。
見合わない時期:係属中の訴訟がある状況で、担当弁護士に知らせないまま点検を走らせること。その間に作成された文書が、意図しない形で使われうるためです。
まとめ
| 領域 | 答えられなければならない唯一の問い |
|---|---|
| 就業規則と契約 | 効力を持つのはどの版で、周知を証明できるか |
| 賃金と時間外 | 支払額を裏付ける実際の勤怠記録はあるか |
| 就業形態の分類 | 実態で見て、この集団は自社の従業員か |
| 外国人従業員 | 書類は今日の実際の職務と一致しているか |
| 証拠ファイル | 明日訴えられたとして、当時本当に記録したものは何か |
紛争が起きる前の点検は一件の訴訟より安く、同じ欠陥に基づく連鎖的な訴訟と比べればはるかに安く済みます。
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本ガイドはスワンナワラ法律事務所(1986年設立・コンケン)が作成しました。一般的な情報であり、個別事案への法的助言ではありません。